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彼女の福音

参拾陸 ― カルネアデスとの会話 ―

 

 

『あー、ごめん。その週は僕、来れないや』

 陽平がばつが悪そうに電話の向こうで言う。

「あァ?」

『ひ、ひぃいいいいいいっ!!』

「陽平、あんた、あたしに対する態度なってないんじゃないの?」

『た、態度って……』

 電話越しに緊張感が伝わってくる。恐らく向こう側では汗を滝のように流しているんだろう。その光景が目に浮かぶが、笑いを押し殺してあたしは続ける。

 あたしがよく行くコンビニの福引で、最近出た映画のタダ券が二枚手に入った。どうも結構人気のあるSF映画で、別の惑星に主人公がスパイとして潜入し、そこで恋をして、そして惑星の中心で愛を唱えるのだった。映画のタイトルは「AVATARもEKUBOUR」。結構ハードなアクションにロマンスが入っているからばっちしあたし好みの作品だと思い、陽平に声をかけたのだった。え?陽平の好み?さぁ……

「あたし主人、あんた下僕。だからあたしが招待したら、あんたは来るの。わかった?」

『それって絶対恋人関係じゃないっすよねぇえっ!!』

「恋人という名の主従関係よ」

『あ、当て字も字数ぴったり……じゃなくて、それって間違ってますよね?!』

「あァ?」

『ひ、ひぃいいいいいいいいいいいいっ!!』

 あまりに大きな声なので、音が割れてくる。

「……なんてね」

『……って、へ?』

 あたしはふふふ、と笑うと、先ほどとは打って変わって静かな声で話した。

「どうせ仕事なんでしょ」

『うん、そうなんだよね。何か急にこっちの仕事増えちゃってさ。あと、結構風邪で倒れる人とかいてね、僕に埋め合わせしろってさ』

「陽平って馬鹿だから風邪引かないもんね」

『自分の彼氏に何言いますかあなた!?』

「え?違ったっけ?まぁいっか」

『よくないよっ!』

「とにかく、うん、仕事頑張んなさいよ。あんたみたいな馬鹿を使ってくれるところなんて少ないんだし」

『……何だろ、この違うと言いたいけど言えない屈辱感』

「ま、映画の方は誰か誘うわよ。その代わり今度ちゃんと遊びに来るのよ?」

『へいへい……マジごめん』

「いいって。それより陽平」

『ん?何』

 少しだけ頬が緩むのを感じながら、あたしは囁くように言った。

「あんまり無茶とかしないでね。体に気をつけなさいよ」

『……わかったよ』

「ん。じゃあね」

 電話を切ってあたしはため息をついた。そしてそのままベッドの枕に顔を埋める。断られた残念さと、話して笑ったりしたという嬉しさが入り混じった感情が胸の中で渦巻く。何というか、いい年して恋する中高生という気がしなくもない。

「……智代と朋也だったら、こんな風にもやもやした気持ちとかないんだろうなぁ」

 あの二人だったら

 

 

 

 

CASE1:Tomoya Okazaki

「智代、愛してる」

『うん、私もだ。じゃあな』

 ガチャ

「うぉおおっしゃああああああっ!!ともぴょんラブでBARI☆BARI爆走だぜ!!」

 

 

CASE 2: Tomoyo Okazaki

『智代、愛してる』

「うん、私もだ。じゃあな」

 ガチャ

「……うん、相思相愛。女の子らしいなっ!よし、この愛のためにも頑張るぞっ」

 

 

 

 

 

 ……あー。

 何なのあのバカップルは。あそこまでストレートに愛を完全燃焼できるんだったら、青春ならではの悩みとかそういうのとは無縁なんだろうなぁ。というか、結局愛が動力源な二人って、もしかすると永久機関なの?ことみに聞いてみようっと。

「さってっと。ちょっと出かけるか」

 うん、もやもやを晴らすにはちょいと外に出るのが一番。あたしはベージュのコートを羽織ると、まだ少し寒いアパートの外に出かけていった。

 

 

 

 

 

 外に出てみたものの、特に目的もないのでそのまま商店街をブラブラしていた。空は少し曇り気味の青空。このまま晴れてりゃいいけどなぁ、とか思いながら散策していると

「あれ?委員長?」

 不意に声をかけられたので振り返る。

「ああ……ええっと」

 はっきり言ってよく覚えていない。というか、誰?

「えー、忘れたの?ひっどーい。同じクラスの福原だよ」

 そう言われて、あたしは彼女をまじまじと見て、そして

「あ、ああ、福原さん。お久しぶり」

「もー、委員長ったら。もうボケちゃったの?」

「そ、そうかも。あ、あははは」

 笑っては見せたが、内心動揺しまくりだった。あたしが光坂を卒業して、もうそろそろ十年経つ。確かにその間にあたしの知っている人たちは変わっていった。朋也はまぁ前より丸くなったし、智代も高校時代よりはピリピリ感というか、それがなくなった気がする。陽平に至っては人間まであと一歩まで来ている。

 でも、それでも朋也は朋也、智代は智代で、陽平は陽平だ。中身も外見も少し変ったとはいえ、変な例えになるけど年末のビッグサイトで見かけてもすぐに彼らだとわかる。

 ところがあたしの目の前にいる福原さんは、もう昔の面影なんてほとんどない。何というか、こういうととても失礼なのはわかってるけど、物凄くケバくなった感じがする。福原という子は、確かうちのクラスに幾つかあった女子グループ、その一つのリーダーの腰ぎんちゃくっぽい子だった。まぁそれなりにそのリーダーとは仲良かったわけだけど、ここまで自分を前に出すような子じゃなかったのは覚えている。

「今、どうしてるわけ、委員長?」

「え?あたし」

「そー」

「あたしはほら、こっちで幼稚園の先生してるわよ。あんたは」

「ふつーに会社員。OLってやつ。ねぇねぇ、今暇?あたしさぁ、久しぶりにこっちに戻ってきたんだけどさぁ、誰もいなくて。もしよかったらどっかでお茶しない?」

 こういう時に何らかの言い訳が思い浮かんでくればよかったのだけど、結局何も思いつかないままあたしは首を縦に振った。

 

 

 

 

「ここ、雑誌で出てたんだけど、結構おしゃれなんだって」

 そう言って連れてこられた場所を、あたしはよく知っていた。別に雑誌を見たからではない。ぶっちゃけて言うと、「Folklore」だった。

「あ、でも怖い人とかいる時もいるから、彼氏同伴お薦めだって。まー、委員長だったら大丈夫よね」

「それ、どういう意味よ」

「だって委員長、妹がらみになると誰だって薙ぎ倒すって噂だし」

 そんな噂が流れていたんだ。どうりで高校時代に男に言い寄られなかったわけだ。

「だから何かあったらあたしを守ってね」

 冗談じゃないわよ何であたしのかわいいかわいい椋とネオン街そのものみたいにケバイあんたを一緒くたにしなきゃいけないのよ言っていいことと悪いことがあるんだからね次そんななめた口利いたら麻縄でふん縛った後で有紀寧に頼んで東京湾辺りに沈めるから覚悟しなさい

 とか思っていても、口に出さないのが大人だと思った。

「まぁ……そんなことは起きないと思うけどね」

「えー。でも雑誌にそう書いてあったんだけどなぁ」

「いや、ホントに。ないって、そういうこと」

 そう言いながら「Folklore」の扉を開けた。からん、と小洒落たベルの音がした。

「あら、いらっしゃいませ杏さん」

「こんにちは、えっと、花子」

「花子、じゃないですよ」

「次郎だっけ?」

「私は女の子です」

「はいはい。というわけでお邪魔するわよ、有紀寧」

 ふふ、と有紀寧が笑う。何となく和んだ。

「そうそう、有紀寧、この子あたしと三年の時一緒だった福原さん。で、こっちがあたし達の後輩の」

「田嶋有紀寧と申します。『Folklore』にようこそ」

「ど、どうも」

 どぎまぎとしながら福原さんが挨拶をする。有紀寧が「いつものですか」と目で聞いてきたので小さく頷くと、有紀寧はカウンターの端のコーヒーマシンの方に歩いて行った。

「ねぇ委員長、何かさ、すごく馴染んでる感じなんだけど」

「え?あ、まぁ、よく来るしね」

「そうなんだ……よく、来るんだ」

 何となく硬い声で福原さんが言う。ふと見ると、あたしから視線を反らしてカウンターの一点を眺めていた。

「で、どんな仕事してるの?会社員って言っても、いっぱいあるでしょ」

「あ、そうそう、聞いてよ」

気まずい雰囲気を何とかしようと話を振ってみたが、物の一分ですぐに後悔し始めた。

 

 ねぇねぇ、あたしんところの会社、アメリカにも進出だって。海の向こうだよね。何かスケール大きくない?

 あ、そうそう、うちの会社の顧客の一人がね、ほら、テレビによく出てくる俳優、えっと、そうそう、ロマンチック宮沢の親戚なんだってさ。

 あたしの課にさぁ、元甲子園投手がいてさ、もうすごいんだよねぇ

 

 確かに、あたしはそんな環境で暮らしてはいない。あたしの勤め先はそもそもどこにも進出しないし、「顧客」の親戚で一番有名なのは年内マラソンで知られている渚のご両親。あたしの知り合いで高校時代に何かをやり遂げた人と言ったら智代ぐらいだけど、智代のことをすごいと思うのは何もそんなことのためじゃない。

 そう、確かにそんな環境じゃない。だけど福原さんの話を聞いていると、ついつい聞きたくなってしまう。

 で?だからどうなの?

 うんざりと専務だか部長だかがローマかどっかに別荘持ってる、という話を聞き流していると、不意に後ろでからりとベルの音がした。

「おう、有紀ねぇ遊びに……って、藤林の姐御?!」

 振り向くと、オールバックを茶髪に染めた革ジャンの男がいた。時々見かける常連の一人だ。

「何?いちゃ悪いの」

「め、滅相もねぇ……」

 そう硬い笑顔で言うと、オールバックは隅っこにそそくさと行ってしまった。名前なんだったっけなぁ。

「……知り合い?」

「知り合いってわけでもないんだけど、なぜかあたしのこと知ってるのよねぇ」

「杏さんはある意味有名ですから。『岡崎(妻)と正面切ってタメ張れるのは、世界広しといえども藤林の姐御しかいねぇ』と皆さんも言ってます」

 有紀寧が微笑みながらコーヒーを二つ持ってきた。ごめん、それ嬉しくないわ、ぜんっぜん。むしろ「智代と同じくらい女の子らしい人って杏様以外にいない」ぐらいは言ってほしかった。

「ねぇ委員長、場所、移さない?」

 有紀寧がさっきの革ジャンの相手をしに行くと、福原さんが小さな声で聞いてきた。

「え?何で?」

「だって……何かガラの悪い人いるし……」

「あんたさっきそれを期待してたじゃないの」

「そうなんだけどね……」

 何となく歯切れの悪い返事をする福原さん。そしてまた気まずい空気が流れる。

「そう言えば、昔のみんなとは連絡取ってるの?」

「うーん、そうだね、一応ユッキーとみゆっちとかなピーとは電話で話とかしてるかな?そう言えばさ、ユッキーってばこの間結婚したんだけどね」

「え?嘘」

「マジマジ。でさあ、披露宴に呼ばれたんだけどさ」

「ふーん、相手って誰?」

「大学のサークルの先輩らしいんだけどさぁ、これが何かねぇ。地元の会社に就職してさ、スーツも国産の安物しか持ってなくってさ、そんなのによく惚れるなあって思っちゃってさ」

「どんな人なの、その人って」

「写真見せてもらったけど、まぁまぁ?あたしなら即刻ダメ出しするけどね」

「いや、だからどんな人なの?優しいとか、頼りになるとか」

「さぁ?あーあ、なんであんなのと一緒になるかなぁ。まあ、所詮ユッキーもそれだけのランクだったってこと?」

 そして福原さんはにやぁ、と笑った。その歪んだ笑顔を見て、あたしはようやくわかった。

 

 この人は、空っぽなんだ。

 

 高校時代はグループのリーダーの腰ぎんちゃくでいるだけでちやほやされたりしてたけど、いざ一人になった途端に全部見失っちゃって、だから必死に自分が他人に自慢できる何かを探して、それで他人を見下して、それでようやく安心できるんだ。別に人が嫌いだから悪口を言ってるんじゃなくて、そうでもしないと自分を保っていられないから。遭難した海の上で、誰かの持っている板きれを取らないと沈んでしまうから。今まで自分の足で泳ごうとしなかったから。

 恐らく、この店を選んだのも、「洒落たところに連れて行って、そこで奢って、あまりにもあたしのセンスの良さにおどおどしている委員長を見て悦に浸ってやろう」とかいう魂胆なんじゃないかと思う。だからあたしがここの馴染みの客だということ、そして「たかが」後輩である有紀寧が雑誌にも紹介されるほどの店を構えているということは、福原さんにとっては手痛い誤算だったんだろう。だから急に店から出たがったりした。そういうことだと思う。

 いや、もしかするとあたしに声をかけたのも、あたしが「ただの」幼稚園の先生だということを聞いてなのかもしれない。例えばこれが智代みたいに有名な商社に勤めているという話だったら、いくら昔親しくても声もかけずに通り過ぎて行ったかもしれない。今の自分を自慢できないから。自分の価値観と示し合わせて優位に立てないから。

「そう言えばさ、うちの学年でさ、就職した人いたよねぇ」

 ぴくり、とあたしは反応した。

「今何やってるんだろ。あまり悪口とか言いたくないけどさ、進学校に行ったのに就職って、ちょっとカッコ悪いよね」

 カッコ悪いのだろうか。好きな人がいて、その人と暮らすために汗水流して働くのが、カッコ悪いのだろうか。必死になって頑張って、それでも馬鹿やって笑っていられるのが、カッコ悪いのだろうか。

「岡崎って言ったっけ?あれ?生徒会長の女の子といろいろあった人だっけ?何だったんだろうね、あれは?」

 あれは何かって?教えてあげるわよ、お馬鹿さん。あれはね、希望なの。愛は如何なる困難も凌駕する、想いがあれば絆は断たれない、そういう崇高な希望なの。あんたには決して理解できない、指の爪の先ほども届かない光なの。おわかり?

「あとさあ、留年二回もした人もいたよね。ありえなくない?」

 ええ、ありえないわよ。ありえないほどの勇気と、強くなりたい、という思いで、渚は最後まで諦めずに病弱な体で卒業したの。その力を以て、強い母親になったの。ありえないほどすごいじゃない、それって。

 本当はここでやんわりと止めておくのが得策だったんだろう。人の悪口っていうもんじゃないわよ、とでも言って、強引に話を変えるべきだったんだろう。でもあたしはこの時点でいっぱいいっぱいだった。朋也と智代を知っている人なら、渚と少しでも話をしたことのある人なら、彼らの笑顔を見た人なら、自分の感情を抑えるのがどれだけ大変か理解できると思う。そして

 

「そうそう、岡崎って言えばさ、春原、だっけ?そんなのもいたよね」

 

 そして福原さんは触れてはいけないところを触れてしまった。偏見で汚れきった手を押しあててしまった。

「金髪に髪染めちゃってさ。あの人、今何やってんの?ていうか、生きてんのかなぁ」

 目の前でへらへらと福原さんが笑う。

「終わってるよね、あんなの。絶対にもてないよね。あ、もしかするとストーカーやってたりして」

 あたしは心の中で自分に言い聞かせた。こいつは違う誰かのことを話している。決してあたし達の陽平の話をしてるわけじゃない。絶対にそうじゃない。

「ま、あたしらには関係のない話だけどね。ランクが違う、って感じ?底辺はずっと底辺?」

 

 

 そこで、何かが切れた。


理由はよくわからない。あたしの大事な人を底辺呼ばわりしたから?自分勝手に人をランク付けできるかのような態度をとったから?それともあたしと陽平があたかも接触しちゃいけないような話しぶりだったから?

 

 

「言いたいことって、それだけ?」

「は?」

 自分でもびっくりするくらい、低い声が出た。あたかももうひとりのあたし − 今まで表面に出すまいと頑張ってきた、あたしの欲望のままに暴れまわるあたし − が口から洩れたような感じだった。

 次の瞬間、乾いた音がして福原さんはあたしを凝視した。そして呆けたかのような動作で、自分の頬をさすった。あたかもぶたれたのが信じられない、とでも言いたいように。

「さっきから聞いてりゃ好き勝手なこと言っちゃって、あんた自分がどれだけ最低なこと言ってるのか、わかる?ねえ、わかってるの?」

「ちょっと……なぁに?何むきになってんの、委員長」

「うるさいっ」

 その一言で、福原さんは開きかけていた口を閉じた。

「いい機会だから言ってあげる。あんたなんかに、あんたみたいな空っぽな空洞人間に、誰かを見下したりなんかする権利なんて、これっぽっちもないの。あんたなんかに、朋也や智代、渚、それに陽平のことをどうこう言える権利なんて、全くないの」

「……」

 福原さんは口をぱくぱくさせていたが、何も言えずじまいだった。あたしは彼女に詰めよった。

「いい?もしこれ以上、あたしの大事な親友や知り合い、そしてあたしの彼氏のことで何か言ったら、あたし、あんたのこと許さないからね。あんたのこと、地の果てまで追っかけて、そのくだらない価値観もろとも壊して、そして残りの人生を後悔と悲観にくれるだけにしてあげるから」

 そこまで言い切ると、あたしはスツールに座りなおした。福原さんはまだ何か言いたげだったが、一言「信じらんない」と捨て台詞を吐き捨てると、「Folklore」の扉を開けてそそくさと出ていった。

「お見事でした」

 気がつけば、有紀寧が傍にいてくれていた。そしていつもの柔らかい笑みであたしを見てくれていた。それを見て、あたしはどこかが緩んでしまった。

「何でだろ、あたしさ、割りきっちゃえばいいんだけどね、こんな奴の言うことなんか聞いてちゃだめだって、そう言い聞かせておけば、案外スマートに無視できたのかもね」

 コーヒーを覗き込んで、できるだけ淡々としゃべった。

「でもね、あたし馬鹿だから、ぶきっちょだからさ、朋也とか智代とか渚の悪口聞いてると、かっとなっちゃうのよね。そこで『でもホントはそうでもないわよ』とか言っとけばよかったんだけど、そんなこと、何かできなくてさ」

 ふっと、本当になぜかふっと目の前に、いつもの光景がよぎった。朋也がいて、隣で智代がいて、そんな二人をあたしが茶化して、それで陽平も図に乗っていつものパターンになって。

「陽平のこと、言われた時、何だかあたしらが釣り合わないようなこと言われた気がしたの。何だか間違ってるって言われてるような気がして、それで、もう止まんなくなっちゃって」

「杏さんは、春原さんとお付き合いされていることを間違いだと思ったことはありますか」

 不意に有紀寧が静かに聞いてきた。見上げると、そこには真剣なまなざしであたしを見据えている彼女がいた。

 よく、ため息交じりにこぼしたりすることはある。あたし、何であんなのを好きになっちゃったんだろうって。

 でも、そこでいつも止まる。

 そこでいつも思い出す。

 そして笑う。

 だって、知ってるから。あんなのがいるから、あたしがいつも笑ってるんだって。あんなのが一緒だから、あたしもみんなも楽しいんだって。

「ありませんよね」

「うん、間違ってない、と思う」

「このお店にはいろんな人が来ます。毎日、いろんなところでいろんなことをなさっているお客さんが来てくれます。だから、ちょっとあれですけど、私、人を見る目は確かだと自負してるんです」

「……有紀寧」

「だから聞いてください。岡崎さんも智代さんも古河さんも、そしてもちろん春原さんも、みんな素晴らしい方々です。杏さんは、そんな人たちと一緒にいること、そしてそんな方を好きになったことを誇っていいんです」

 有紀寧の笑顔は、少し滲んで見えた。

 

 

 

 

 

 三回目のコール音で、陽平が出た。

『ふぇい、もしもしぃ』

 もう寝てたんだろうか、陽平の寝ぼけた顔を思い浮かべてあたしはくすりと笑ってしまった。

「寝てた?」

『んぁ、杏?まあ、うん、何か疲れちゃってさあ』

「ねぇ陽平、来週さ、忙しいのよね」

『うん、そうだけど……ごめんなさい命ばかりは慈悲をおかけください杏様』

 今度こそ、あたしは笑ってしまった。

「だから違うわよ。その、ね?もし大変ならさ、あたし、泊まりがけであんたのところに行ってもいいわよって」

『は?』

「ほら、どうせ炊事洗濯掃除てんでやってないんでしょ」

『何でそれをっ……って、いや、モチロンガンバッテルヨ?』

 あー、こういうわかりやすいところって、もしかすると陽平の一番笑えるところかもしれない。ちなみに智代に言わせてみれば男と言うものは三日で家中を散らかすことのできる、一種の才能者らしい。

「そんなんだったら、あんた休んでても体に悪いわよ?ただでさえ頭悪いんだから、体まで悪くしたらどうするのよ」

『そういう時はバッドガイ春原、って呼んでくれよ……って、頭悪いってひどいっすよね?!』

「事実じゃない」

『ったく……でも、杏こそ大変でしょ』

「いいってば。だって」

 

 だって、あんたはあたしの大切な人なんだから。

 

 

 

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